日野田崇『Mollusc Republic』展

 静止画にせよ動画にせよ、アニメは二次元の平面上に構想されたフィクションであるという暗黙の了解が大半の享受者の意識の奥底にある。1990年代後半より、日野田崇は陶の造形によってこのフィクションの次元の住人達を三次元空間に実在させる作業を続けて来た。アニメの平面的なイメージを立体化する際に、対象を多視点で捉えて再構築する手法で、彼がこれまで生み出してきた造形物には特有の異様さが漂う。それらの存在感の強烈さは歪な形状で立ち上がる風貌にその理由の多くが帰せられてきた。そして今、本展において日野田が見せた造形の新展開によって、我々は彼の批評精神の強靭さにこそその理由を帰すべきであると確信することとなった。

 これまでの作品はいずれもほぼ単色で仕上げられた造形物であったが、今回、日野田は表面に明快な線による描写と多彩色を施している。これによって立体の表面上にさらに二次元空間が生まれ、我々はひとつの個体に対面しながら現実と仮想の次元を複雑に行き来する感覚を体験するのである。この次元を日野田は「2.5次元」と呼ぶ。作品は勢いコミカルな饒舌さを増すが、奥には底知れない孤独と静寂が支配する世界が存在することもまた予感させる。

 1968年生まれの日野田は、物心ついた頃からマンガやアニメの世界の住人の物語を日常的に浴びてきた世代の作家である。大衆に向けて大量生産され、大量消費される夥しい数の物語。彼にとってはごく近しい日常語であるマンガの語法を造形表現に用いることは至極自然な行為である。日野田は自身の創作活動を「物語のカスを拾い集める作業」と言う。それは、氾濫する既成のストーリーの残骸を回収し、そこから人智を超えた別の物語を宿す異形の生き物を生成する行為である。ハリボテの街で日々繰り広げられる虚栄の物語は、忽ち消費され霧散する運命にあるが、飽食の後の残飯は我々の集団的無意識の領域に累積し続けることだろう。それは人間が、快楽追求の途上で生じる廃棄物を自然界に葬ろうとする有り様に似ている。眼前で手に入るものに比して、隠蔽された廃棄物は遥かに未知の、恐ろしく負荷を帯びたものなのだろう。彼はそんな負の遺産を自らの高度な手技を以て静かに祝福する。

 ここで想起すべきは1995年の阪神淡路大震災である。自然の理のなかではひとたまりもない人工的世界の脆さを体感した彼は、人智を超越した力の存在に対して畏怖とともに敬愛にも似た念を抱くことになったという。日野田の創造は深く肯定的である。彼が生み出す異形の生命体たちが示すコミカルな表情に、ある種の神々しさが漂う所以である。日野田の作品に向き合うということは、「2.5次元」の新語で語られる黙示録を読み解くことに他ならない。

不動美里(金沢21世紀美術館シニア・キュレーター)
2005「REAR」No.11より転載